森薗美咲(青森山田中学校~青森山田高校~日立化成)以下、美咲
「予選リーグ第1試合・青森県対広島県・1番・ラブオール!」主審のコールで試合が始まりました。
平成19年秋田わかすぎ国体。この年から少年種目への出場選手資格が一部変更になり、前年度までは高校1~3年生のみの出場でしたが、中学3年生も出場できることになりました。青森県卓球連盟から「板垣、少年女子の監督!目標は4年連続の国体優勝!」と指示を受け、初めての女子の監督をすることになりました。
初戦の1番に出場したのは森薗美咲(当時・青森山田中学校3年)。対戦相手は高校生のカットマン。
「板垣先生。私一番ですか?中3ですよ。マジ緊張します(笑)。っていうか、思い切ってやって良いですか。」※今思えば、今思えば、今思えば・・・・可愛い時代でした(笑)。
と言ってコートに入った美咲はラブオールの1本目、バックにロングサーブを出し、クロスに返ってきたバックカットに対して回り込み、バッククロスへ一撃のスマッシュ。一発でぶち抜きました(驚)!
「こいつマジかよ。」第1ゲーム11-0….。「嘘つき!緊張してねぇじゃん!」
青森県少年女子チームは準優勝という結果でしたが、中学3年生ながら、決勝戦の2得点を含め単複11戦全勝と、その後日本のトッププレーヤーになる足がかりを作った秋田国体。
それから7年後の平成26年度全日本卓球選手権。
「サーバー石川。女子シングルス決勝、第1ゲーム、ラブオール。」
(写真提供:卓球王国)
全日本卓球選手権女子シングルス決勝という大舞台にはあの美咲がいました。同級生である石川佳純選手に敗退したものの、押しも押されぬトッププレーヤーに成長した美咲。そんな彼女の青森山田時代の卓球に対する取り組みは正直、群を抜いていました。
青森山田中学校2年生から、女の子(女子ではなくてあえて女の子と表現します。)1人で男子の「国際卓球センター」に毎日足を運び、全国トップの男子選手との練習。規定練習後、私が疲れて練習場を先に出ようとすると「板垣先生。ボール出してもらえませんか。」「板垣先生、今日はどこがダメでしたか?」と納得のいかない所を毎日のように自主練習。「国際卓球センター」から離れたところにある「女子寮」の寮母さんと連絡をとり、彼女を無事に送り届ける日を5年続けました。他の女子選手も時々「国際卓球センター」に練習に来ていましたが「一人だけで練習に行くのはちょっと行きにくいです….。」というのが本音だったらしいです。女子選手の気持ちは理解していました。その通りだと思います。美咲以外は….。
とにかく動く動く。打球点速くフォアハンドで連打する。一撃で振り抜き、一撃で得点をする。気迫を全面に出し、どんなボールにも食らい付いていく。全国トップクラスの男子選手に負け、本気で落ち込む、落ち込める。この「負けん気の強さ」が美咲の最大の長所でした。それは美咲の目には同級生で「天才」の石川佳純選手が常にいたからです。
「佳純ちゃんに追いつこう。追い越そう。」美咲の持つ目標を叶えてあげたく、指導者として女子の卓球をも勉強できました。動かないと今日の練習を満足して終われない美咲。美咲の最大の長所を生かしながら「男子選手が試合で使う戦術や台上技術」の練習や、(汗をかかないから?)大嫌いなSV練習の割合も日に日に増えていきました。
「この子は日本代表になる素質を持っている。まずは大きな目標を立て、それに向かって1つ1つクリアしていこう。」
最初に立てた目標は2009年に横浜で開かれる世界卓球選手権(個人戦)への出場。どの種目でも良いから日本代表になることでした。そのためには高校1年生で向かえる全日本選手権大会での「大きな」結果が必要でした。
「高1で全日本最低ベスト8.いや、8では厳しいなぁ..。間に合うかな。」
こうして向かえた高校1年生の全日本卓球選手権大会。男子選手とタイムテーブルが重ならない限りはベンチコーチに入り、驚異的な精神力で逆転勝ちをしてくる美咲にただただ拍手を送りました。また、対戦相手がカット選手の時には世界3位という素晴らしい実績を持つ羽佳純子さん(㈱ニッタクコーチ)にベンチコーチに入っていただきカットマン目線で美咲を支えていただきました。そして目標であった、いや、目標以上の女子シングルス第3位という結果が認められ、混合ダブルスのみの出場ではありましたが、2009年世界卓球選手権大会横浜大会で初めて日の丸をつけることができました。(後編に続く。)
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